こんばんは、セレサポ.netライターの牧落連(まきおちれん)です。
セレッソ大阪の第四代背番号8、セレッソを愛し、セレッソのためにプレーし、それゆえに苦しんだ天才、柿谷曜一朗の引退試合が迫ってきました。
2024シーズンをもって現役を引退した柿谷曜一朗氏の引退試合「THE LEGEND DERBY YOICHIRO KAK…
私は昭和の生まれ、セレッソ大阪が誕生したときからずっとクラブを応援してきました。森島寛晃前社長が若手と呼ばれていたころからです。背番号8をつけた選手たちのプレーもすべて間近で見てきました。
どの選手も8番を背負うにふさわしい実力を持っていましたが、柿谷曜一朗はそんな中でも突出して魅力的な選手でした。そして、プレー中の華やかさとそれ以外で見せる影のコントラストがひときわ大きな選手でもありました。

今回は引退試合を前に、彼がどのようなプレイヤーだったのかを、当時の写真や動画を織り交ぜながら前後編にわたって振り返っていこうと思います。
セレッソ大阪時代(2006~2009、2012~2014、2016~2020)は私が、徳島ヴォルティス時代(2009~2011、2023~2024)は徳島サポーターのカメラマン、阿波川島さんが担当します。
4歳から始まったサッカー人生と、才能あるがゆえの苦闘
曜一朗のキャリアは4歳のころ、セレッソの下部組織で始まりました。2006年に16歳でプロデビューするまでセレッソ一筋、その才能はコアなサポーターなら誰しもが知るところでした。世代別代表では同じ1990年生まれの水沼宏太(現ニューカッスル・ジェッツFC)と攻撃の核を成し、U-17フランス戦でのロングシュートは強烈なインパクトを残しました。
柿谷曜一朗が2017年のU-17ワールドカップで決めた超ロングシュート💫
完璧トラップ&反転ターンから右足を振り抜いた⚽️
当時サッカーファンの度肝を抜いた一撃でした👏🎥:@FIFAWorldCup_JP #柿谷曜一朗 #daihyo pic.twitter.com/eFORpI14Xh
— FOOTBALL ZONE (@zonewebofficial) January 18, 2025
セレッソは曜一朗がプロデビューした2006年、J2に降格したため多くの主力選手がチームを去り、若い選手を積極的に使わなければならなくなりました。チームとしては望ましい状態ではありませんが、曜一朗にとっては出場機会を得るチャンスでした。2006年は1試合のみの出場でしたが、2007年には21試合で起用されています。
一見、順風満帆なすべり出しのように見えますが、若くしてプロ入りし、世代別代表でも活躍、J2の最年少得点記録も塗り替えたことで彼の中に慢心が生まれはじめていました。10代の青年が周囲にもてはやされ育ってしまったら、謙虚さや他者へのリスペクトを持ち続けるのは困難。曜一朗はピッチ内では才覚ある選手でしたが、ピッチ外では社会経験のほとんどないごく普通の若者だったのです。
2009年、クラブが香川真司を中心に圧倒的な攻撃力でJ1復帰へと突き進む中、曜一朗は度重なる練習への遅刻、規律を乱す行為を理由に徳島ヴォルティスへと期限付き移籍……。
人生はじめての大きな挫折ですが、これが人間、柿谷曜一朗を育てる転機になりました。
(徳島編は阿波さんにお願いします)
プロとしての覚醒(徳島、2009夏~2011シーズン)
セレッソを半ば追われるようにして辿り着いた徳島ヴォルティス。この新天地で曜一朗は目醒め、プロのフットボールアスリートとしての基礎を築いていく。たくさんのエピソードがあるのだが、やはり三人の男の名前を挙げたい。
美濃部直彦(2008 – 2011在籍)は当時の監督。曜一朗の才能を認めつつ、プロとしての振る舞いを粘り強く指導した。美濃部さんなかりせば、果たして曜一朗はJリーグ通算473試合出場という偉業を達成できただろうか。
当時のチームメートだった倉貫一毅(2008 – 2011在籍)と濱田武(2010 – 2017在籍)も忘れられない存在。倉貫はJリーグ通算477試合出場にして、徳島の「8番」を背負った象徴的な選手。一方の濱田もセレッソユース育ちという共通点を持ちつつ、404試合出場という偉大な記録を残す。練習に遅刻しそうになる曜一朗を毎日TSV(徳島スポーツビレッジ)に連れて行ったそうな。
こうした環境下、やがて曜一朗はプロの戦士へと成長する。キャプテンマークを巻いて出場することもあった。2011シーズン最終戦。徳島は勝てばJ1昇格という位置に付けたが、敵地岡山で1-0の敗戦。年間順位は4位となり惜しくも昇格を逃す。この大一番に先発出場した曜一朗だったが、試合終了直後、ベンチで泣き崩れる様子が記憶に残っている。そして、曜一朗はヴォルティスを去る。
その後、徳島はJ1の舞台に立つことになる。セレッソとの対戦の日(2014年3月8日)、曜一朗は地元紙である徳島新聞に全面広告を出した。
「ありがとう、徳島。」と。
「J1、徳島0-2C大阪」(8日、ポカリ) “恩返し弾”はならなかった。2009年6月から約2年半在籍し、再起の原点とな…
天才の凱旋。危機を救った2012シーズン、最も輝いた2013シーズン
2012年、セレッソに戻ってきた曜一朗はもう10代の頃のような規律を乱す選手ではなくなっていました。むしろプレーでチームを引っ張る、仲間を支える側に立っていたとさえ言える立ち居振る舞いを見せはじめます。
このシーズンのセレッソは中盤に失速、レヴィー・クルピを再度監督に招聘してなんとか残留に成功したのですが、不調のチームにあって曜一朗はひとり11ゴールと意地を見せます。この活躍と選手としての姿勢が初代背番号8、森島寛晃の心を動かしました。

2013年シーズン、曜一朗は海外クラブへの移籍が有力だと言われていました。私は知人と「モリシが交渉の席で『背番号8をつけてくれ』とでも言わなければ引き止めるのは無理だろう」と冗談半分で話をしていたのですが、実際、モリシは曜一朗を呼んで背番号8をつけてほしいと語ったのだそうです。
モリシの引退試合となった2008年12月6日の愛媛FC戦、曜一朗も長居スタジアム(現ヤンマースタジアム長居)にいました。しかし、彼の眼の前で憧れの背番号8は同期の香川真司へと引き継がれたのです。それから4年、初代ミスターセレッソがようやっと自分を認めてくれたわけですから、曜一朗に断る理由などありませんでした。
背番号8をつけた曜一朗は2013年、選手としてキャリアハイの活躍を見せます。21ゴールをあげてクラブの日本人最多得点記録を更新、チームのACL出場権獲得に貢献します。

数字だけでも素晴らしい活躍だったのはわかるでしょうが、曜一朗の本当の凄みはプレーを見ないと理解できないでしょう。
異次元のボールタッチ、狭いスペースを一瞬で突破する戦術眼、理解不能なシュートスキル、他のどのストライカーとも違うプレーで相手のDFラインをズタズタにする様は多くのサポーターを引き付けました。セレ女ブームがあったのも必然だったのではないでしょうか。
個人的な思い出なのですが、アウェイの大宮戦のあと大宮駅前のカフェで夕食をとっていると、強面の大宮サポーターが「おい」と迫ってきました。絡まれるのではないかとドキドキしていると、「アンタんとこの柿谷てのはよ、ありゃあすげえな。まいったわ」と笑いかけてくれたことがあります。他のチームのサポーターもうなるほどの選手が、応援しているチームにいるというのは本当に嬉しいことです。
(後編へつづく)

